深い森の中。薄暗いざわめきの中に、アカオニはいた。
——鬼がいる。 ——赤鬼だ。 ——隠れろ。 ——赤鬼に見つかる。 ——食べられる。 森の深いところから、こそこそと声が聞こえる。獣たちの声だ。 そうして辿り着いた巨木の根っこ。森の中心近くにあるという、深い森の最も深い場所。 そして目の前には、苔の塊がある。 それは時折もぞもぞと動いて、凝視するアカオニを困惑させる。
「……もし。少し道を聞きたいのだが」
アカオニの声に反応し、苔の塊の動きが止まった。
「ぁん? ……赤鬼? うわ、嘘、片角じゃん。やな感じ……」
片角。声色。哀れむような視線。 慣れたものだ。哀れみも、侮蔑も。 「碧鬼(へきおに)のアカシャ様がこの辺りにいると聞いて来た。取り次いでもらえるだろうか」
「なんだ。お客さんか」
苔の塊が崩れ、丸まっていた体がのっそりと起き上がる。 碧色の髪と瞳。蛾の触角のような角。鉱石の複眼。小さな体躯。草木で作られた衣装を纏った姿は、碧鬼そのものだ。 大きく欠伸をしながら、碧鬼は自身を見下ろすアカオニと目を合わせた。
「今はちょっと、大陸の方に出掛けてるよ。なんか龍がどうのこうのって言ってたけど。喧嘩にでも行ったんじゃない? 年を考えろって思うんだけど。んで、片角が何の用?」
「間が悪かったか。聞きたいことがあったのだが」
「ばあさまが知ってることだったら、あたしも知ってるかもよ」
「お前は?」
「あたしは孫のアムシャ。ばあさま程じゃないが、大体のことはわかるよ。でも面倒くさい依頼はしないでね」
それならば、とアカオニはその名を口にする。
「青鬼のリョユウ」
それを耳にした途端、アムシャの顔が引きつった。
「居場所を知りたい」
「ハァァ……面倒くさい依頼じゃん。悪いんだけど、そいつには関わりたくない。他の碧鬼をあたってよ」
「何か理由が?」
「危ない奴なんだよ、そいつ。下手するとこっちが危ない。草木たちも怖がってる。関わり合いになるのはゴメンなんだよ。あんたがどういうワケで嗅ぎ回ってるかは知らないけど、やめときなよ。死ぬよ?」
アムシャの声色は硬かった。こちらの身を案じているのも伝わってくる。きっと性根の優しい鬼なのだろう。 だが、それでも。
「知りたいのだ。奴がなぜ同族を裏切ったのかを」
「……あんた。まさか、その角」
「聞かれたところで、言うつもりもない。既に死んだ身。名も捨て、今の私はただのアカオニだ」
「……事情は知らないけど。それとあんたを信用するかは別問題だよ」
「どうすれば信用してくれる」
「ならひとつ、手伝いをしてもらうよ。力自慢の赤鬼にぴったりの手伝いだ」
最近、この森に獣が流れてきてね。食べ物を独り占め。森の縄張りもほとんど無視だ。獣たちも手を焼いててさ。 いつもは獣たちの問題は獣たちで解決するんだけど、今回ばかりはどうにかしてくれ、って泣きつかれたんだよ。
アムシャの言った通り、そいつはいた。 デカい奴だ、と言っていたが——たしかにデカい。座っていても立ち尽くすアカオニと同じくらいの背丈——つまり巨躯だ。 ゴワゴワした毛むくじゃらの、巨大な熊だった。そいつが、日向ぼっこをしている。
「……たしかに、食い物はいくらあっても足りんだろうな」
草むらの影に隠れていたアムシャは、わざと大きな音を立てて姿を現した。
「やいっ! この大熊!」
んぁ? と気の抜けきった声で、大熊がこちらを振り返った。
「あ、碧鬼の小娘。まーた来たの? いい加減縄張りちょうだいよ。食べ物も。お腹が減って仕方ないよ」
「よそ者には何もあげないって言ってるだろ! 今日はな、力自慢の赤鬼を連れてきたんだからな!」
「えっ、赤鬼!? ていうか、お前友達いたんだ」
「友達じゃねえよ! お前を追い払うために手を借りたんだよ! 出てこい、アカオニ!」
呼ばれたので草むらから出ると、最初は赤鬼と聞いて狼狽えていた大熊がゲハゲハと笑い出した。
「片角じゃないか! こんな半端な奴で僕に勝てると思ってるの!」
のっそりと立ち上がる大熊。とうとう見上げるような形になり、アムシャが踏む潰されそうに小さく見える。 だがアムシャは退かず、胸を張って応じる。本当は恐ろしくて仕方がない。
「お前に、相撲勝負を申し込む!」
「相撲!?」
凄んでいた熊が急に笑顔になった。
「やるやる! 相撲は大好きだ! だがもしも僕が勝ったら——碧鬼、お前を食ってやる!」
「あ、あたしを食うの? えぇぇ……絶対嫌なんだけど……」
死んで森の一部になるなら本望であるが、余所から来た熊に食われるのはゴメンだ。 アムシャが唸っていると、静観していたアカオニが口を開いた。
「おい。そんな小さな鬼を食べても、腹は満たされんだろう。私を食え」
「な——あんた、気はたしかか!?」
「リョユウの行き先を追うのなら、お前に死なれたら困る。言ったはずだ。私は既に死んだ身だ。さあ、どうする熊よ。私を食ったなら、片角とはいえ鬼の力を得られるかも知れんぞ」
「おお! 鬼の力があれば、僕はこの森の主にだってなれる!」
「その代わり、私が勝ったらお前を食う。いいな」
「食うか食われるかってことか。面白い! 受けて立つよ!」
両者が殺気立つ中、碧鬼は自身の背中に冷たい汗を感じる。 このアカオニという鬼、まるで矢だ。 引き絞られた大弓から放たれた矢。意思などなく、ただ一直線にそれに向かって行く。赤鬼という奴らは、皆こうなのか? おそらく違うだろう。このアカオニがおかしいんだ。 死地に近づきながらも、こんなにも楽しそうに嗤う鬼を、アムシャは知らない。
著:獏宮本 画:あらみ
苔むす鬼
- PriceUSD PriceQuantityExpirationFrom
- PriceUSD PriceQuantityFloor DifferenceExpirationFrom
苔むす鬼
- PriceUSD PriceQuantityExpirationFrom
- PriceUSD PriceQuantityFloor DifferenceExpirationFrom
深い森の中。薄暗いざわめきの中に、アカオニはいた。
——鬼がいる。 ——赤鬼だ。 ——隠れろ。 ——赤鬼に見つかる。 ——食べられる。 森の深いところから、こそこそと声が聞こえる。獣たちの声だ。 そうして辿り着いた巨木の根っこ。森の中心近くにあるという、深い森の最も深い場所。 そして目の前には、苔の塊がある。 それは時折もぞもぞと動いて、凝視するアカオニを困惑させる。
「……もし。少し道を聞きたいのだが」
アカオニの声に反応し、苔の塊の動きが止まった。
「ぁん? ……赤鬼? うわ、嘘、片角じゃん。やな感じ……」
片角。声色。哀れむような視線。 慣れたものだ。哀れみも、侮蔑も。 「碧鬼(へきおに)のアカシャ様がこの辺りにいると聞いて来た。取り次いでもらえるだろうか」
「なんだ。お客さんか」
苔の塊が崩れ、丸まっていた体がのっそりと起き上がる。 碧色の髪と瞳。蛾の触角のような角。鉱石の複眼。小さな体躯。草木で作られた衣装を纏った姿は、碧鬼そのものだ。 大きく欠伸をしながら、碧鬼は自身を見下ろすアカオニと目を合わせた。
「今はちょっと、大陸の方に出掛けてるよ。なんか龍がどうのこうのって言ってたけど。喧嘩にでも行ったんじゃない? 年を考えろって思うんだけど。んで、片角が何の用?」
「間が悪かったか。聞きたいことがあったのだが」
「ばあさまが知ってることだったら、あたしも知ってるかもよ」
「お前は?」
「あたしは孫のアムシャ。ばあさま程じゃないが、大体のことはわかるよ。でも面倒くさい依頼はしないでね」
それならば、とアカオニはその名を口にする。
「青鬼のリョユウ」
それを耳にした途端、アムシャの顔が引きつった。
「居場所を知りたい」
「ハァァ……面倒くさい依頼じゃん。悪いんだけど、そいつには関わりたくない。他の碧鬼をあたってよ」
「何か理由が?」
「危ない奴なんだよ、そいつ。下手するとこっちが危ない。草木たちも怖がってる。関わり合いになるのはゴメンなんだよ。あんたがどういうワケで嗅ぎ回ってるかは知らないけど、やめときなよ。死ぬよ?」
アムシャの声色は硬かった。こちらの身を案じているのも伝わってくる。きっと性根の優しい鬼なのだろう。 だが、それでも。
「知りたいのだ。奴がなぜ同族を裏切ったのかを」
「……あんた。まさか、その角」
「聞かれたところで、言うつもりもない。既に死んだ身。名も捨て、今の私はただのアカオニだ」
「……事情は知らないけど。それとあんたを信用するかは別問題だよ」
「どうすれば信用してくれる」
「ならひとつ、手伝いをしてもらうよ。力自慢の赤鬼にぴったりの手伝いだ」
最近、この森に獣が流れてきてね。食べ物を独り占め。森の縄張りもほとんど無視だ。獣たちも手を焼いててさ。 いつもは獣たちの問題は獣たちで解決するんだけど、今回ばかりはどうにかしてくれ、って泣きつかれたんだよ。
アムシャの言った通り、そいつはいた。 デカい奴だ、と言っていたが——たしかにデカい。座っていても立ち尽くすアカオニと同じくらいの背丈——つまり巨躯だ。 ゴワゴワした毛むくじゃらの、巨大な熊だった。そいつが、日向ぼっこをしている。
「……たしかに、食い物はいくらあっても足りんだろうな」
草むらの影に隠れていたアムシャは、わざと大きな音を立てて姿を現した。
「やいっ! この大熊!」
んぁ? と気の抜けきった声で、大熊がこちらを振り返った。
「あ、碧鬼の小娘。まーた来たの? いい加減縄張りちょうだいよ。食べ物も。お腹が減って仕方ないよ」
「よそ者には何もあげないって言ってるだろ! 今日はな、力自慢の赤鬼を連れてきたんだからな!」
「えっ、赤鬼!? ていうか、お前友達いたんだ」
「友達じゃねえよ! お前を追い払うために手を借りたんだよ! 出てこい、アカオニ!」
呼ばれたので草むらから出ると、最初は赤鬼と聞いて狼狽えていた大熊がゲハゲハと笑い出した。
「片角じゃないか! こんな半端な奴で僕に勝てると思ってるの!」
のっそりと立ち上がる大熊。とうとう見上げるような形になり、アムシャが踏む潰されそうに小さく見える。 だがアムシャは退かず、胸を張って応じる。本当は恐ろしくて仕方がない。
「お前に、相撲勝負を申し込む!」
「相撲!?」
凄んでいた熊が急に笑顔になった。
「やるやる! 相撲は大好きだ! だがもしも僕が勝ったら——碧鬼、お前を食ってやる!」
「あ、あたしを食うの? えぇぇ……絶対嫌なんだけど……」
死んで森の一部になるなら本望であるが、余所から来た熊に食われるのはゴメンだ。 アムシャが唸っていると、静観していたアカオニが口を開いた。
「おい。そんな小さな鬼を食べても、腹は満たされんだろう。私を食え」
「な——あんた、気はたしかか!?」
「リョユウの行き先を追うのなら、お前に死なれたら困る。言ったはずだ。私は既に死んだ身だ。さあ、どうする熊よ。私を食ったなら、片角とはいえ鬼の力を得られるかも知れんぞ」
「おお! 鬼の力があれば、僕はこの森の主にだってなれる!」
「その代わり、私が勝ったらお前を食う。いいな」
「食うか食われるかってことか。面白い! 受けて立つよ!」
両者が殺気立つ中、碧鬼は自身の背中に冷たい汗を感じる。 このアカオニという鬼、まるで矢だ。 引き絞られた大弓から放たれた矢。意思などなく、ただ一直線にそれに向かって行く。赤鬼という奴らは、皆こうなのか? おそらく違うだろう。このアカオニがおかしいんだ。 死地に近づきながらも、こんなにも楽しそうに嗤う鬼を、アムシャは知らない。
著:獏宮本 画:あらみ